激動の時代を乗り越えてきた、中国残留邦人の中井さんのお話(横浜市で暮らす外国人トークリレー/第14回)

 物心がつく前に中国で迎えた終戦、社会の変化に翻弄され続けた中国での暮らし。―激動の時代を乗り越えてきた中井さんが日本に帰国したのは、戦争が終わって42年後のことでした。日本人の両親のもとに生まれ、中国人の養父母に育てられ、中国で生きてきた中井さんは、帰国後どのようにして日本での居場所を探してきたのでしょうか。現在はボランティアとしても活動し、楽しく前向きに「幸せ」を探し続けています。

中井 玲子 さん
中国残留邦人・日本に来て37年

『人生を楽しめるかどうかは自分次第。「心を真っ新(まっさら)」にして、前向きに生きていく。』

日本人であることを知り、日本に帰国するまで

 中国で中国人として育てられ、結婚後は3人の子どもを授かりました。そんな私が日本人であることを養父から知らされたのは、日中国交正常化の少し前。はじめは事実を受け止められず苦悩しましたが、日本人であることを理由に受けた差別、中国での貧しい暮らしから抜け出すために日本への帰国を決意、働きながら日本にいる肉親を捜し続けました。そして1987年、第二の人生を歩むため、ついに家族5人で日本に帰国することができました。

生きていくために必死に勉強した日本語

 私たち家族は、当然日本語を話せませんでした。帰国者定住促進センターで4か月間日本語を勉強しましたが、その後は生活のためすぐに調理場での仕事を始めました。中国人として生きてきた私は、職場で「中井さん」と呼ばれても、誰のことか分からない。調理器具の名前を言われても、何のことか分からない。毎日職場で怒られ悔しくて、家に帰ってたくさん泣きました。

 「私が望んで、やっとの思いで来た日本。」
―気持ちを必死に前に向けて、日本語の勉強を頑張りました。電車の中でひらがなを見つけ辞書で調べたり、調理器具の絵と日本語を紙に書いてポケットに入れたり…日本に慣れるため、日本人として生きていくために必死でした。

苦難の中で見つけた「まっさらな心」

 その後は、掃除の仕事に就きました。これまで経験したことのない仕事に、はじめは憂鬱な気持ちがありました。また、同僚に「中国人」といじめを受けることが何度かあり、どちらの国でも差別を受ける自身のルーツに悩んだこともありました。

 この仕事を1年、2年と続けていくうちに、気持ちに変化が現れました。掃除をすると自分の心も綺麗になるような気がしてきたのです。そして、綺麗に掃除をすると使う人が気持ちよさそうで、明るい表情になることにも気づきました。「ありがとう」と声をかけてくれる人も出てきて交流が生まれ、友だちも増えました。昔の苦しかったことは忘れて、毎日を真新しい気持ちで始め、楽しいことをする。そうやって生きているので、私は今とても元気です。

日本での生活を支えてくれる、支援の場

 日本の生活に不慣れだった私に日本語を優しく教えてくれ、また、勉強だけでなく生活での困りごとにも寄り添ってくれたのが、地域で日本語支援などの活動を続ける「ユッカの会」です。帰国当時から今も変わらず、日本語の勉強やパソコン・スマホの操作など、さまざまな場面でサポートをしてくれます。

 15年程前からは、コミュニティカフェでボランティアを始めました。活動を通して学ぶことが多く交友関係も広がるため、私にとっては学校のような大切な場所になっています。特に、日本と中国の文化交流ができることがとても嬉しいです。本場の餃子や花巻などをつくると、みんな「おいしい!」「どうやって作るの?」と喜び頼ってくれます。新しいことに挑戦できる場でもあります。最近はお店で出すケーキの焼き方を覚えました。カフェは私の楽園です。これからもたくさんの交流の場を持ちながら、幸せな時間を積み重ねていきたいです。

(掲載誌:情報冊子「にほんごコミュニケ―ション」2024年3月号)

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